朝
4/13(金)
気がついたら布団の中にいた。
顔を埋めるたくさんのクッションのフリル。
大きな抱き枕は誕生日の贈り物で、髪の水気を少しだけ吸ってL'OCCITANEの香りのするタオルがしっとり冷たくて、黒いパイプベッドの柵にかかっている。薄いガラスのモビールが寒さに震えるように音を立てて、窓が空いているんだな、と思う。
8畳の部屋は午前4時32分をさす針の幅だけ動いた月の影で満たされていて、私以外は眠っていた。目が覚めたという感覚はなかった。
私はただそこにいた。
物語に入り込めなくなったのはいつからだろう。
金髪に真珠を編み込んだ人魚や緑の瞳のねずみなんかの冒険を貪るように読みふけった頃は、ページをめくるたびに自分が主人公かのように胸が苦しくなり、頬がひりつくほど熱くなった。心が締め付けられるほど、欲に揺さぶられた、ような気がする。 そんなこともなかったのかもしれない。
両親が小学生の年から誰も借りていない古い本は、図書館の黄ばんだ布の表紙が子供の柔らかな手には痛くて、大きなクッションに立てかけて冷たい床に腹ばいになって読んだ。カーペットが敷かれていなかったから夏休みだったのかもしれない。昔は父のものだった部屋の床には煙草の跡がついていて、その黒いしみを左手の小指で摩るのが好きだった。
思い出したように丸ノ内線が軋む。
池袋駅と後楽園駅の隙間に軽く腰掛けて、ワンピースの膝にのせた文庫本は何度も読みかけて、左側だけ焦れたようによれている。
美しいタイトル、華奢な鉛筆書きの表紙は水彩絵の具で着色されている。 大好きな、私以外も好きな女流作家の名前。誰しも。
透き通るような言葉選びの文章は、片付いているけれど微かに部屋干しの匂いがする一人暮らしの女子大生の部屋に似ている。なにかを諦めながら日々を噛み締めるには取り繕いすぎているところが好きだった。
その子も、その子の部屋も、挟んで挿絵にしてしまいたいほどこの本に似合っていた。
私には仄かに足りていない確実ななにがが一体何なのかがわからなくて、羨望が胸をじりじり炙って、脊髄が炭になるほど熱くなって、焼け落ちるように本を閉じてしまう。
また本の左側が取り残される。
背後でドアが閉まり、何もかもが私を置いてどこかに行く気がする。
染めたばかりの髪は駅のバターの香りのする風に揺れて少しグレイアッシュに透けた。
32mmのヘアアイロンで顔周りを巻いて、ふんわり引き出した裏編みこみにミスディオールのヘアミスト。
ハンドメイドの花とコットンパールのイヤリング、薄くラベンダーに色付く日焼け止め。CHICCAのリップが深いローズ越しに青いラメをきらきらさせる。
先月買った3番目にお気に入りのワンピース、素足に見える少しだけ着圧のストッキング。
税抜き9850円のジェルネイル、ピンクのA350番。シンプルなラメグラデーションやその他全てが焦燥感を駆り立てる。ベージュできらきらした小さな花の入ったネイルがしたい。前に立ってた知らないお姉さんみたいな。
JILL BY JILLSTUARTのビジューがお花型に並ぶバッグは少し小さくて、紙袋に教科書を入れた。西洋美術史の図録と実習用のエプロン、何もかもも中途半端の負け組の象徴の気がしてシュウウエムラの黒い袋をそっと指で挟んで閉じた。
いつかは思いっきり深い群青色で、オーロラのラメがついているハイヒールが欲しい。それをなんでもない平日に何気なく選べる充実したウォークインクローゼットも。
ヒールのゴムはもちろんメンテナンスが行き届いて艶やかで、白い大理石の床をふむ度に、丁寧な暮らしを送っている女が満足気に喉を鳴らしたみたいな音がする。
ずさんな女の足音は左右で少しだけ違ってだらしない。そしてそれを知っているのも。
ああ、ブス、ブス、まあかわいい、ブス、デブ、ブス、それから私が並んでエレベーターのランプが灯る。私もきっと知らないだれかに順位をつけられる。このエレベーターは24時間監視されています。恐ろしい。
今日寝坊したら自殺しようと思った。
特に理由はなかった。
毎晩夜遅くまで理由もなく小さな霧を噛み潰して、ある夜ふと思い立っただけだった。ブルーライトに少しだけ当たりすぎたのかもしれなかった。でも、自死というフレーズはあまりにもしんなりと脳に染み込んできて、ピオニーの香りがオイルから髪に馴染む前に納得してしまった。誰かに納得させられた気がした。
いつもより念入りに足にクリームを刷り込んで、ペディキュアもすみれ色に塗り直してみたりして。汚い部屋を少しだけ片付けて。
携帯のアラームも消して、暖かいオレンジ色に調節したランプも消して、暗闇では眠れないので街灯が見えるようにカーテンを少しだけ開いて、念の為SNSの投稿も全部消して。
明日はこんなふうに眠ることも無い気がして、大切に伸ばしたまつ毛にくしを通してから瞼を閉じて。なんだかずっと寝ていられるような気がして。
そしていつもより早くずっと起きた。
そんな日が昨日も今日も明日も、なんとなく続いていくような気がする。
どこにでも居る女。平成30年、20歳の春。