ファム・ファタールの清怨

ブログの文章は全てフィクションです。

「全然覚えてない」

 

9/27(水)


なんの話をしていたか忘れたけど、「ちょっと考えすぎなんだよ」と彼は朗らかに言った。

なんの話をしていたかは覚えていないけど、確かに水曜日の朝11時だった。

 


炭酸の抜けたコーラのグラス。肩が擦れるほど近くに座るおじさんの社員証

考えすぎなきゃもっと楽に生きられるのに、と続ける下がった目尻。安っぽいアクリルグラスの向こうで平日の渋谷のアスファルトが秋晴れを揺らす。高さ3mのINTEGRATEのグロス。真っ赤に塗った唇が小さな人達の頭上でゆったり笑っている。

視線を彼に戻すとやっぱりなんにも考えていないようなとろけた目で画面の欠けたiPhoneを見ていた。彼はそんな言葉を吐くくせに、そんな目をするくせに、誰よりもなにかを考えている。買い被りすぎかも。

この後なんて返したのか、わたしが何を飲んでいたのかもはっきりしないのに、彼が飲んでいたのは確かにコーラだったし、彼は確かにそう言った。ファミレスの窓の外には大きな化粧品の看板があった。

 


わたしと、彼の隙間に、たまに生まれる瞬間の話をしている。わたしはこんな瞬間をたくさんたくさん覚えていて、そしてふとした時に思い出す。

その瞬間は確かに彼と共有しているのに、どうしてかわたししか覚えていないのだ。

 


今夜。数ヶ月ぶりにふたりきりでお酒を飲んだ。腕を机の下に突っ込んで肩を揺らす仕草がおかしくて、何してるのと聞いたら、手を机の上に乗せてくれた。

爪を擦り合わせていた。

数ヶ月前も、彼はバーカウンターの下で爪を擦り合わせていた。マンハッタンを飲んでいた。掠れた声で「なんか汚い気がして」と呟く横顔が真っ白だった。

その日、初めてセックスをした。

 


「前も爪擦ってたね」と言うと、やっぱり彼は絶対にしてない、思い込みだと言って聞かなかった。

 


繰り返すたびにこうも片思いだと思う。一人になったらどうせわたしとのことなんか思い出しもしないくせに。いいんだけど、寂しい。寂しいというか、どうも独りきりの気分になってしまう。黒いファーのついたピンヒールのかかとを椅子に引っ掛けて揺らしながら、適当に選んだお酒をなにかで割って飲んだ。体の中に入ってしまうものに名前はいらなかった。

 


「大丈夫?さっきからグラグラしてる」

椅子に掛けたヒールが安定しないで体を揺らしていたらしい。気づかなかった。彼の手をかりて椅子から降りる。

ふと私を見つめる目が優しくなって、そして、彼は本当にあっさりと呟いた。

 

 

 

「そういえばこんなこと前もあったね」