ファム・ファタールの清怨

ブログの文章は全てフィクションです。

無い

 

日付の記載なし

 

全ての時間に値段はつけられるけれど。

首都高を駆け抜ける赤いライトがハイヒールの遥か下で滲むハイアットのバーカウンター。ガラスケースが内側から曇らないように息を潜めて並ぶ宝石達の値札を眺める時よりも、朝日の差し込む歌舞伎町のホテルK、私の財布からだした宿泊4800円のことをきっと一生思い出すのだろう。

煙草で黄ばんだカーテンが空調で揺れて、骨が浮くほど痩せた背中を舐めるように影が落ちるのを、幼い頃に見た映画の断片的な記憶のように眺めていた気がする。

何も見えなくなるほど閉め切った暗闇の中、瞼を頭とは反対に冷え切った手で押さえつけて、垂らした唾液を絡めて、初めて本当に愛のないセックスをした、次の朝の乾燥した空気。

体だけの関係より心が遠い行為が存在することを知った。珍しくいつの事かは思い出せなかった。スケジュール帳にすら書けない相手のトーク履歴などあるはずがなかった。

 


汚いのだと言われた。

自分で言ったくせになんだか傷ついたような顔をしていた気もしたけれど、そう思いたかっただけなはずだろう。吐き捨てられた言葉が自尊心にこびり付くように散った。アスファルトのガム。袋の中で割れる卵。振り払われた手がなんだか自分のものとは思えないほど不格好に膨れているような、そんな感覚が全身を走って電気のように地面に流れて行った。薬指のジェルネイルだけが欠けていた。

 

それなのに、今、小田急のホームの騒音の中、隠すように手を繋ぐのはなぜなの。俯いた横顔が思いつめたように白くて、それが本当に顔色が悪いのか、それとも安っぽいミドリの蛍光灯に照らされているからなのかすら、もうわからなかった。恋人じゃないから。

110円の缶の、機械で温められた熱い塊を左手に持っていると、彼の右の指先が焦るように冷えきっているような気がする。

振り絞るように落とされたあいしてる、なんて、聞かせる気がないほど小さくて、執着とも言えないような一瞬の吐息だけがはっきり白くて、本当は言葉なんか存在すらしない気がした。

電動自転車の音、長い坂道、夕焼け、ちょっと多い抹茶ラテ、もう行かない駅のことを考えて、やめた。

いつだって彼の言葉に実体なんかない。

厚い唇から離れると、内側にだけテラコッタのリップが滲んだ。二言話しただけで落ちてしまう範囲にしか口紅を残せない、小さな唇が憎かった。

本当にすきだった気がする。

しない。大丈夫。

 

寂しい。

 

はず

女の空洞について考える。

 

女は体に空洞を抱えて生まれる。

これはどうしようもない事実だと思っていて、うまれついての性質で、空がうすい青から朱に変わって次第に暗くなっていくように、誰かが定めた訳では無いけれどそういうふうになっているのだと思う。

けして何かと比べて欠損しているとか、不完全だとか言いたいわけじゃないの。

 

息をそっと吹き込んで作るガラスの器のように薄くて美しい入れ物。

内側からじわじわと力をかけるように、親や環境や言葉や評価やなんかが無理やり詰めこまれていって、隙間に好きなものや思い出なんかをピンセットと絵筆で小さく小さく塗り込んで、無我夢中で季節が巡って、ふと気がついたら人ひとりが入るか入らないかの空洞だけが残っているような気がする。

もちろんそこには1人分くらいの価値があるものならなんでも入れて良くて、周りの人はなぜだか空洞の扱いが私より上手な気がして、私はどうしてもそこに入れるなにかを無意識下に探してしまっていた。何も入れなくたってよかったのに。

どうしてかその空洞の正体から目をそらしていたために、わたしは常に何かに急かされるような、甘く焼かれるような焦燥感に襲われていたような気がする。二次性徴前の微かにGがかかるような、紐をほどいたような性欲に似ている、結論のない自分自身に対する欲望は影のように常につきまとった。

突然、背中を叩かれるように空洞の存在を感じてわからないなにかを強く渇望したのは、小学生の頃から飼っていた犬が死んだときだった。大学2年の冬だった。もうすぐ私は3年生になるところで、おばあちゃんの葬儀をして間もなくだったと思う。

彼女はあと10日で12歳の誕生日だった。癌ができていて、手術をすればもう少しだけ長生きできたかもしれないけれど、気づくのがあまりにも遅くて、手術をするリスクの方がずっと高くなっていた。それでも、手術をさせてあげればよかったのに。

彼女が亡くなる晩に、雪が降った。

びっくりするくらいの大雪だった。

思えば彼女がうちにやってきた日にも、雪が降っていた気がする。綺麗な白い雪が車のミラーの縁に薄く積もっているのを小学生の手がなぞっていた記憶がある。私の手。ふわふわの体をそっと抱きしめるとくったりと重みが増して、頼りない小さな温かさが胸にしみこんでいくようだった。本当に手術させてあげればよかった。

雪が見えるように窓辺にクッションを積んで、少しも窮屈なところがないようにゆったりと寝かせて、上から私のパジャマや毛布なんかをたくさんかけて、外の空気を思う存分吸わせてあげた。鼻先だけがでていて可愛かった。嫌になるとすぐ寝てしまうのに、そのときはいつまでも降り積もる雪を見ていた。

 

その日彼女はいつもより少しだけ元気で、その後すぐ息をしなくなった。

 

たくさんの花に埋もれた体は真っ白で、散りばめられたスイートピーなのか柔らかかった足なのか区別がつかないほどだった。小さな頃は金色の毛皮が王さまの冠のように輝いていた彼女がいつの間にこんなに白くなったんだろうと思った気がする。よく覚えていない。何しろ泣いてばかりいたものだから、葬儀場に着て初めて自分が何を着ているか気づいたぐらいだった。

黒いハイネックに抜けた毛がついていて、擦ると簡単に落ちてしまうことにまた泣いた。

犬を焼いても祖母を焼いても、同じように煙は空に上がった。

餌の代わりに犬に水とろうそくをあげるようになってしばらくして、自分の中にぽっかりと穴が空いていることに気づいた。突然空いたわけではなくて、どこかのひび割れからすきま風が吹き込んで、空気がくるくる回って空洞の大きさを知らしめているような感じがした。

思えば心の壁のひびを密に埋めていたのが犬だったのだろう。ふわふわした妹であり親友でありよき理解者だった彼女は、パテのように隙間を埋めて、繊細な器そのものを支えてくれていた気がする。

常に付きまとった焦燥感の正体を後ろから殴られるように見せつけられた私は、その日から空洞を埋める役割をその時の恋人に求めてしまった。

心がひび割れていることを知ってしまって、空洞が音が響き渡るほど広いことを理解してしまって、今となっては他人に人生を背負わせることなんか出来るはずがなかったのに、隙間を直すなんてことには考えも及ばなくて、とにかくこの空洞を埋めて欲しくて仕方なかった。

 

1年間は、楽しそうに笑う友達が朗らかに話す「あっという間」とはかけ離れた負荷を与えて体を蝕んだ。

毎日泳がなければいけない空気には何故か体に耐えられないほどの苦しみが満ちていて、自分だけ重量が何倍もかかっているような気がしていた。

私だけが悪い訳では無いと私にどこまでも優しい人達は言うけれど、悪いとか悪くないとか それ以前に私が彼を変えてしまったことはどうしようもない事実だし、最終的には事実として私が悪い。

 

そして、この空洞が人より深く深く落ちくぼんでいることをなんとなく理解してどんどん自分のことが嫌いになった。

 

破局して暫くずるずると体の関係だけ続けていた三ヶ月目のある日、犬が亡くなってから本当に変わってしまったね、と何気なく言われて、それが血が噴き出るような確信に変わった。心から空洞の存在を恥じていたのだと感じた。

悶えるような、それでいて何もかも投げ出してしまえるような気持ちになって、全部がどうでも良くなった。

それでも何もかもを大切にしなければと思った。

空洞を無理して埋めることなどできないし、それを押し付けてしまった人と二度と上手くいくこともない。

 

この人ひとりぶんの空間はは別にここに誰かをずっと閉じこめるために空いているわけでもないのだ。

隙間なく何かが入っていなくてもいいと思えるのが大人になることなのかもしれない。

 

 

私の足元には小さい犬がころころと走り回っていて、すごくやんちゃで、いつも穏やかだった彼女をたまに思い出すけれど、とても悲しんでいる暇がないほど忙しい。そばにいない寂しさよりも、あの子は本当に賢かったね、といとしく思うことの方がよっぽど多い。

ふわふわの塊はもう成人してしまった私のひびを埋めることは出来ないけれど、いてくれるだけでなんだか暖かいような気がする。

 

 

でも、ふと結び目がほどけそうないま、隣から漂うアーク・ロイヤルの煙が空洞に吹き込む棘に微睡んでいる。

人生の過程で自分が詰め込みきれなかったこの空洞は、己の思うままに満たそうとすることは端からできなくて、与えられたものでしか満たせないのだと思う。

雁字搦めに縛りつけて泣き叫ぶ恋より、振り返る髪にうっすら副流煙が香るくらいの距離を空洞が求めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はず。

排水溝

 

長く浸かるにはぬるくなった湯船の中で、声がどこかにこぼれてしまう気がして、電話口に縋るようにいつか会う予定を、週末会う予定を、水曜日に会う予定を囁き合った。

午前2時16分。

授業のあとに星を見に行きたくて、いつの間にか飲みになって、そして気づけばセックスすることになった。

お湯とは既に呼べなくて、膝は少し冷えてきていて、追い焚きはできなくて。

ゆっくりと蝕まれるように体全体がかじかんでいくのをわかっているのに、耳元で擦れる囁き声が甘くて涙が出た。

足のあいだをぬめる執着が浅ましくて、いまはこんなものにしか縋れないことを、ことが、どうしても、

 

12月某日

手紙の下書きを見つけました

 

 

 

頬を撫ぜる風がどこか煙るような匂いを潜らせて過ぎていきます。12月も半ばになりました。冬です。

 

先日、エレベーターに乗ると女子高生が前に立っていました。白い靴下に木の葉のかけらがついていました。煤けたフェルトが貼られた壁に寄りかかる彼女はプチシリーズのうす塩味のポテトチップスを小さなつめでつまんで唇に運んで、そしてかさかさと音を立てて咀嚼していました。私は芋が好きです。ホクホクとしてなめらかで塩っけとよく合う甘みが好きです。芋。芋といえばじゃがバター。プラスティックのパックにヘラで擦りつけた、外側がパリパリしたじゃがいも、缶入りバターをスプーンですくって上でとろけさせる、お祭りの夜。今年の夏はあなたと食べました。浴衣の肌触りと日焼け止めの香りを覚えていますか。私はこんな些細なことであなたを思い出して、暖かく、寂しくなります。大好きです。

もうじき二人で過ごして九か月になりますね。毎日は会えないけれど、会えない日はこんなふうに日常に散りばめられた記憶が心と指先を暖めてくれます。この距離はヤキモチを妬いてしまうことも多いけれど、でもそばにいるよりあなたを考えているのかもしれない。

たくさん心配かけてごめんなさい。× のおかげですごく私はいい方へいい方へと歩いていっています。× のおかげです。いつも正してくれて、支えてくれてありがとう。私もあなたを支えて癒してあげられる女の子になれるように努力します。

写真フォルダを見返すと数えられないくらいの思い出がぎっしり詰まっていて、なんだかすかすかしていた最近の私が埋まっていく気分です。

× がいま新しく与えてくれるものに縋りすぎていたのかもしれない。振り返れば× は私が困った時や辛い時、いつも優しく甘く包んでくれて、それにいつも助けられていたのに。

はじめておてがみしたとき今日という大事な日を積み重ねていつかは道ができますように、と書いたのを覚えていてくれるかな。

今×がこの場にいなくても、わたしのことを好きでいてくれて大事にしてくれているのを当たり前に信じられること。

ふとした時に昔のことを思い出せること。

× が私に作ってくれた道なのかなと思う。

本当にありがとう。愛しています。心から信じています。

× は私と過ごした日々を覚えていますか。

忘れてる気がするな。でも確かお祭りの時の写真をロック画面にしてくれているし、だから、私がふとした時に思い出すより確実に夏のことを思い出してくれてるのかもしれないね。ああ、いつも言葉より態度で愛してくれてありがとう。大好き。

もっと区切りのいい時におてがみすればよかったんだけど、でも今伝えたくて。

 

ところでこの手紙は電車の中で書きました。この暖かい気持ちのまま、これからあなたに会いに行きます。

 

 

 

 

 

自意識

11月7日(火)

 

Pan!c at the discoというバンドを教えて貰った。家が遠い私の早い終電までの時間、高田馬場の冷たいベンチで、ひとつのイヤホンをふたつに割いて聞いた。肩を寄せあって聞く曲は半分だけのはずなのに、ひとりで聞くそれよりもずっと心に残るのはなぜだろう。

 


気心の知れた友人達と話した。それは無料で座って話せる席や、池袋駅東口の前を人が通る度に開くドアのせいで外の風が冷たいマクドナルドで話すには少しばかり汚らしく高慢であったけれど、そこだからこそ生まれた会話であったのかもしれない。

19歳から22歳までの男女が4人で集って「犬種の違う犬、美しい装丁の本、美しい瓶」について話した。これらはすべて私たちなりに人間の本質を言い換えた語彙である。しかし、こう書くとあまりに私達が「それらしさ」を求めて生きているかが明らかであまりにも気恥ずかしかった。

女がいる。Mとする。彼女は高校一年からの知り合いで、彼女と私は「同じ犬種の犬」である。たとえてもよいのならキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルパピヨンであるが、もちろんそれはここでは問題ではない。同じ犬でもいろんな毛色があるように、私達は容姿は違うが性格や考え方や暮らし方が非常に似ている。

それだけの話でそれは私達がたまに交わす自己愛を震わせるための合言葉に過ぎなかったのだが、偶然に彼と彼の友人もまた同じ犬種であったので異なる犬同士の交際について考える機会が生まれた。Rとする。彼らの犬種についてはここでは言及しない。重ねて言うがそもそも各々のナルシズムを擽るだけのただのお遊びなのだ。

結論にたどり着く前に主旨が伝わること。感動するシーンが同じだったり、恋愛のスタイルが似ていること。彼とRと3人で話すと強く孤独を感じるほどに2人は似ている。

私とMは恋愛で悩んだ時、外見をより磨くことを考える。美しい瓶にはいいものが入っているに違いないし、美しい瓶は部屋に飾っておくと癒される。人にも自慢できる。

「彼氏に愛されていないなら今より髪を黒く染めようかな。と思う。」と言えば、2人は同じ形に眉をひそめて人間は「本」だと言った。わからない。美しい装丁の本は確かに手に取りやすいが、中身がスカスカなら読み続けない。逆に面白ければ古くても大事に読み返す。本は透明のバッグに入れて持ち歩いたりしないし、見た目で人に自慢することは無い。

また、人間の評価は五段階チャートでそれぞれは平等にわけられているとも言った。可愛くなれば「美しさ」の評価値は上がるが、それだけであると。美しさがあっての人生と確かめ合って、お互いに見た目のキャラが被らないように住み分けて暮らしてきた犬達には衝撃の連続であった。異文化交流は楽しいが、最近すれ違うことの多い彼氏が別の犬種であると少し辛い。彼のすべてをすぐ理解できたらどんなに幸せだろう。彼は私に相談をしたりしないし、私の相談を聞くのも好きではなさそうだ。お互いに理解し得ないところも多いし、彼が何気なく発した言葉に私が過剰に反応してしまうこともある。秋の終わりは人肌恋しくなお辛い。重ねて言葉がお互いに不自由な関係である。私より理解してくれる人がいるのに私は必要ないんじゃないかな。

 


「次の電車でいいや」

電車一本分の時間だけでも一緒にいたかった。東横線が地下の空気をかき混ぜて逃げていく。曲はもう終わっていた。彼がiTunesのアーティストたちを親指で撫でながらそのうちの一つを再生すると、風の切れ目に半分だけの女声がきこえる。

ふと「これは、好きかな」と小さく彼自身に問いかけている横顔を見た。

ああ、わからないのだ。と、気づいた。

気に入るかわからない。確信がない。聞いたことがあるかも知らない。けれど、彼はその唇をふと寄せて考えてくれていた。

理解し得ないわたしのために悩んでいる、私なんかのために。

ぎゅっと細い肩に頬を寄せる。吹き込んでくる風にも間を遮って欲しくなかった。勝手に横から手を出して私の好きな曲を流す。

「俺もこれ好きだよ」

薄いシャツから彼の体温を頬で奪って、手のひらに返した。

もうただそれだけでよかった。

「全然覚えてない」

 

9/27(水)


なんの話をしていたか忘れたけど、「ちょっと考えすぎなんだよ」と彼は朗らかに言った。

なんの話をしていたかは覚えていないけど、確かに水曜日の朝11時だった。

 


炭酸の抜けたコーラのグラス。肩が擦れるほど近くに座るおじさんの社員証

考えすぎなきゃもっと楽に生きられるのに、と続ける下がった目尻。安っぽいアクリルグラスの向こうで平日の渋谷のアスファルトが秋晴れを揺らす。高さ3mのINTEGRATEのグロス。真っ赤に塗った唇が小さな人達の頭上でゆったり笑っている。

視線を彼に戻すとやっぱりなんにも考えていないようなとろけた目で画面の欠けたiPhoneを見ていた。彼はそんな言葉を吐くくせに、そんな目をするくせに、誰よりもなにかを考えている。買い被りすぎかも。

この後なんて返したのか、わたしが何を飲んでいたのかもはっきりしないのに、彼が飲んでいたのは確かにコーラだったし、彼は確かにそう言った。ファミレスの窓の外には大きな化粧品の看板があった。

 


わたしと、彼の隙間に、たまに生まれる瞬間の話をしている。わたしはこんな瞬間をたくさんたくさん覚えていて、そしてふとした時に思い出す。

その瞬間は確かに彼と共有しているのに、どうしてかわたししか覚えていないのだ。

 


今夜。数ヶ月ぶりにふたりきりでお酒を飲んだ。腕を机の下に突っ込んで肩を揺らす仕草がおかしくて、何してるのと聞いたら、手を机の上に乗せてくれた。

爪を擦り合わせていた。

数ヶ月前も、彼はバーカウンターの下で爪を擦り合わせていた。マンハッタンを飲んでいた。掠れた声で「なんか汚い気がして」と呟く横顔が真っ白だった。

その日、初めてセックスをした。

 


「前も爪擦ってたね」と言うと、やっぱり彼は絶対にしてない、思い込みだと言って聞かなかった。

 


繰り返すたびにこうも片思いだと思う。一人になったらどうせわたしとのことなんか思い出しもしないくせに。いいんだけど、寂しい。寂しいというか、どうも独りきりの気分になってしまう。黒いファーのついたピンヒールのかかとを椅子に引っ掛けて揺らしながら、適当に選んだお酒をなにかで割って飲んだ。体の中に入ってしまうものに名前はいらなかった。

 


「大丈夫?さっきからグラグラしてる」

椅子に掛けたヒールが安定しないで体を揺らしていたらしい。気づかなかった。彼の手をかりて椅子から降りる。

ふと私を見つめる目が優しくなって、そして、彼は本当にあっさりと呟いた。

 

 

 

「そういえばこんなこと前もあったね」

 

 

 

 

 

 

 

4/13(金)

 


気がついたら布団の中にいた。


顔を埋めるたくさんのクッションのフリル。

大きな抱き枕は誕生日の贈り物で、髪の水気を少しだけ吸ってL'OCCITANEの香りのするタオルがしっとり冷たくて、黒いパイプベッドの柵にかかっている。薄いガラスのモビールが寒さに震えるように音を立てて、窓が空いているんだな、と思う。

8畳の部屋は午前4時32分をさす針の幅だけ動いた月の影で満たされていて、私以外は眠っていた。目が覚めたという感覚はなかった。

私はただそこにいた。

 


物語に入り込めなくなったのはいつからだろう。

金髪に真珠を編み込んだ人魚や緑の瞳のねずみなんかの冒険を貪るように読みふけった頃は、ページをめくるたびに自分が主人公かのように胸が苦しくなり、頬がひりつくほど熱くなった。心が締め付けられるほど、欲に揺さぶられた、ような気がする。 そんなこともなかったのかもしれない。

両親が小学生の年から誰も借りていない古い本は、図書館の黄ばんだ布の表紙が子供の柔らかな手には痛くて、大きなクッションに立てかけて冷たい床に腹ばいになって読んだ。カーペットが敷かれていなかったから夏休みだったのかもしれない。昔は父のものだった部屋の床には煙草の跡がついていて、その黒いしみを左手の小指で摩るのが好きだった。

 

思い出したように丸ノ内線が軋む。

池袋駅後楽園駅の隙間に軽く腰掛けて、ワンピースの膝にのせた文庫本は何度も読みかけて、左側だけ焦れたようによれている。

美しいタイトル、華奢な鉛筆書きの表紙は水彩絵の具で着色されている。 大好きな、私以外も好きな女流作家の名前。誰しも。

透き通るような言葉選びの文章は、片付いているけれど微かに部屋干しの匂いがする一人暮らしの女子大生の部屋に似ている。なにかを諦めながら日々を噛み締めるには取り繕いすぎているところが好きだった。

その子も、その子の部屋も、挟んで挿絵にしてしまいたいほどこの本に似合っていた。

私には仄かに足りていない確実ななにがが一体何なのかがわからなくて、羨望が胸をじりじり炙って、脊髄が炭になるほど熱くなって、焼け落ちるように本を閉じてしまう。

また本の左側が取り残される。

背後でドアが閉まり、何もかもが私を置いてどこかに行く気がする。

 


染めたばかりの髪は駅のバターの香りのする風に揺れて少しグレイアッシュに透けた。

32mmのヘアアイロンで顔周りを巻いて、ふんわり引き出した裏編みこみにミスディオールのヘアミスト。

ハンドメイドの花とコットンパールのイヤリング、薄くラベンダーに色付く日焼け止め。CHICCAのリップが深いローズ越しに青いラメをきらきらさせる。

先月買った3番目にお気に入りのワンピース、素足に見える少しだけ着圧のストッキング。

税抜き9850円のジェルネイル、ピンクのA350番。シンプルなラメグラデーションやその他全てが焦燥感を駆り立てる。ベージュできらきらした小さな花の入ったネイルがしたい。前に立ってた知らないお姉さんみたいな。

JILL BY JILLSTUARTのビジューがお花型に並ぶバッグは少し小さくて、紙袋に教科書を入れた。西洋美術史の図録と実習用のエプロン、何もかもも中途半端の負け組の象徴の気がしてシュウウエムラの黒い袋をそっと指で挟んで閉じた。

いつかは思いっきり深い群青色で、オーロラのラメがついているハイヒールが欲しい。それをなんでもない平日に何気なく選べる充実したウォークインクローゼットも。

ヒールのゴムはもちろんメンテナンスが行き届いて艶やかで、白い大理石の床をふむ度に、丁寧な暮らしを送っている女が満足気に喉を鳴らしたみたいな音がする。

ずさんな女の足音は左右で少しだけ違ってだらしない。そしてそれを知っているのも。


ああ、ブス、ブス、まあかわいい、ブス、デブ、ブス、それから私が並んでエレベーターのランプが灯る。私もきっと知らないだれかに順位をつけられる。このエレベーターは24時間監視されています。恐ろしい。

 


今日寝坊したら自殺しようと思った。

特に理由はなかった。

毎晩夜遅くまで理由もなく小さな霧を噛み潰して、ある夜ふと思い立っただけだった。ブルーライトに少しだけ当たりすぎたのかもしれなかった。でも、自死というフレーズはあまりにもしんなりと脳に染み込んできて、ピオニーの香りがオイルから髪に馴染む前に納得してしまった。誰かに納得させられた気がした。

いつもより念入りに足にクリームを刷り込んで、ペディキュアもすみれ色に塗り直してみたりして。汚い部屋を少しだけ片付けて。

携帯のアラームも消して、暖かいオレンジ色に調節したランプも消して、暗闇では眠れないので街灯が見えるようにカーテンを少しだけ開いて、念の為SNSの投稿も全部消して。

明日はこんなふうに眠ることも無い気がして、大切に伸ばしたまつ毛にくしを通してから瞼を閉じて。なんだかずっと寝ていられるような気がして。

 

 

 

そしていつもより早くずっと起きた。

 

そんな日が昨日も今日も明日も、なんとなく続いていくような気がする。

 


どこにでも居る女。平成30年、20歳の春。